For All Photographers

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ある商品のカタログ撮影で、会心のフォトディレクションと自負できる写真が仕上がり、盤石の自信を持って社長プレゼンに臨んだ。

社長はテーブルに並べたプリントを、じっと食い入るように見ていた。長い沈黙の後、「何かが違う」とポツリと言った。当然食い下がったが、「なんか違う」という答えなき答えに理屈など通じるわけもなく。

冷静を装いながら、あらゆるシミュレーションを頭の中で行っていると、社長が突然「どっちがいいと思います?」と2枚のプリントを取り上げた。ひとつは会心のフォトディレクションの1枚、もうひとつは、フォトグラファーに自由に撮影してもらったものだった。当然、社長はそんなことは知らない。

真意は計りかねたが、アートディレクターという立ち位置でなく、客観的にその2枚と対峙し、「個人的に好きなのはこっちです」と自由撮影のほうを指差した。

「ですよねぇ。私もこっちに惹かれます」。

その写真は商品の超クローズアップで、何が写ってるのか判別できないような写真だった。カタログ中で遊びページ用として撮影してもらった、言わばイメージカット。「こんなイメージで全商品を撮影したものを見てみたい」と社長は言った。

フォトディレクションの敗北。綿密なコンセプトワークと周到な準備、ベストなスタッフィングで挑んだディレクションだったが、フォトグラファーに自由に撮影してもらった一枚の写真に、すべてを持って行かれてしまった。

再撮影は立ち会わないことにした。ノンディレクションというディレクション。やけくそではなく、それがいいと思ったからだ。困惑するフォトグラファーに伝えたのは、「密室で恋人のヌードを撮るように商品を撮影してほしい」ということだけだった。なおさら混迷は深まったことだと思う。

後日、撮影し終わったので見に来てほしいとスタジオに呼ばれた。モニターに映し出された写真をみた。じっと見た。艶やかで、ミステリアスで、エロティック。理屈を超えた強さがその写真にはあった。賞賛の言葉を投げかけると、やつれた表情のフォトグラファーは少し笑った。

目的とかコンセプトに寄り添った写真を、簡単に飛び越える写真というものがある。

コマーシャルフォトは”目的”をもった表現手段だ。しかし、それを追求すればするほど、写真本来の魅力が失速していく場合もある。そこにこの仕事の難しさとやり甲斐がある。

監督と放任、狙いと偶然、会議室と現場、アートディレクターがどちらに軸足を置くかで、同じ被写体でも仕上がり違ってくる。文字どおり写ってしまう。写真とはまったくセンシティブな表現だと思う。

僕にとってのフォトグラファーとは、イメージに翼をつけてくれる人のことを言う。貧相な発想やアイデア、数多ある事情などを軽々と突破し、見るに耐えうる表現まで高め、感銘をあたえる領域まで連れて行ってくれる。これまで、どれほどプロフェッショナルな写真家たちに救われてきたことか。

これからもよろしくお願いします。