小中学校時代に勉強ができる以外に一目置かれる存在がいて、それはスポーツ万能か楽器が弾ける生徒だった。それとは別に重宝がられるスキルの持ち主もいて、それは絵を描くのが得意な生徒で、自分の居場所はそこにあった。
幼少時代から絵を描くのが好きで、キャラクターの模写や先生生徒の似顔絵、漫画の作画など描いてばかり。学校のスケッチ大会で軒並み金賞を取ったりして、挙げ句の果てに学級新聞の制作やら卒業文集の表紙デザインなど自然と任されるようになっていた。
そんな経験を重ねて、小学校を卒業する頃にはこんなことを将来の仕事にするんだろうなと思っていた。自分が好きなことを仕事にできるし、何より表現することで人に喜ろこんでもらえるのが嬉しかったから。その心持ちはプロとなった今でも変わらない。
高校(普通科)に進学しても描くことを続けた。サーフィンをやっていた同級生にせがまれてプロサーファーの絵をエアブラシで描いてあげたり、知り合いのお店の看板を作ったり。いろいろ活動していたら、噂を聞きつけた美術教師がこれ応募してみないか?とシンボルマーク公募の情報を教えてくれた。
昨年(1979年)発足した、宮崎高等学校文化連盟(高文連)が活動を本格化するにあたり、県下の高校生にシンボルマークを公募しているとのことだった。
高文連とは、全国47都道府県高校生の芸術文化活動を支援する全国組織で、現在でも全国高等学校総合文化祭や研修会・講習会の開催など、高校生の芸術文化系部活動を全面的にバックアップしている団体である。
美術教師が声をかけたのは自分だけだったらしいが、他に取り柄もないのでトライしてみることにした。
デザインしたシンボルマークは宮崎の県木である「フェニックス」をモチーフに、緑豊かな宮崎の明るさと高校生の快活さをイメージし、ポスターカラーを使って手描きで仕上げた。今見ると稚拙ではあるが高校生らしくて悪くない(笑)。
結果、応募総数230点の中から採用されたのは、自分がデザインしたシンボルマークだった。今から44年前の話だ。
今年の9月初旬、宮崎県立大宮高校新聞部の顧問の先生から連絡があった。9月21日(私の誕生日)から行われる宮崎県高校総合文化祭で発行する特別号で、宮崎の高校生の100年間のあゆみをまとめた特集を企画しており、そのなかで宮崎高文連のマークをデザインした当時のことを取材したいとの依頼だった。
まさか44年前のデザインについて現役高校生から取材を受けるなど思いもよらなかったが、何かの足しになればと快諾した。
オンラインにて、総勢6名の高校生記者から取材を受けた。シンボルマークについてはもとより、デザインという仕事の魅力、アイデアの着想法、大変だった仕事は?、今後の目標・展望などなど…。こんなに幅を拡げて記事にまとめられるのかと心配になるほど様々な質問に受け応える取材となった。
発行前日、完成した新聞を送っていただいた。予定していたスペースを大幅に拡充した丸々1ページの記事になっており、一生懸命に記事にしたであろう文面をしっかりと読んだ。44年前のデザインが繋いでくれた現役高校生とのご縁。最高のバースデープレゼントとなった。